2013年1月28日月曜日

誠意を持って粘り強く



報道は「人」に支えられている―。そんな当たり前のことを思い出した。

これまで多くの人にマイクを向けてきた。事故現場では目撃者や当事者、街頭インタビューでは買い物客や仮設で暮らす避難者などから、様々な声を聞かせてもらった。そのたびに、いつも思う。市井で暮らす一般の人にとって、応じる義務のある取材など、ほとんど皆無だということを。現に多くの取材で断られるケースが大半だが、ある意味当然だと思う。

そもそもマイクとカメラを向けられて躊躇しない人のほうが珍しい。特に映像メディアは活字メディアよりも、視覚的に個人を特定しやすい。個人がいつ・どこで何を話したのか、不必要にプライバシーをさらす恐れがある。地方の狭いコミュニティで暮らす人なら、それはなおさらだ。さらに、自ら発した声が「県民の声」「被災者の声」などと表象されれば、日常生活に微妙な影を落とすことにつながるかもしれない。

しかし、だからと言って、個人が特定されにくいように、顔を隠したり、声を変えたりするような手法はあくまで例外にとどめるべきだ。現在の社会を包んでいる雰囲気、埋没しがちな問題点、知られていなかった新事実―。社会をより説得力を持って浮き彫りにするのは、表情や背格好も分からない誰かの声ではない。顔の分かる「人」から発せられた声、例えば抑えきれない怒り、輝くような笑顔、涙で震える頬などを内在させた声に他ならないからだ。

毎日新聞の記事を読んで、それを改めて実感させられた。1月25日「余禄」、1月26日「社説」は、2つでワンセットと言えるだろう。テーマは、アルジェリアで10人の邦人が殺害された悲劇についてだ。政府が被害者の名前の公表に踏み切ったことに触れ、過去の行き過ぎた報道を自戒しつつも、公表の重要性をこう論じた。「犠牲者一人一人の氏名はこの事件で奪われたもののかけがえのなさを共に心に刻むためのよすがである」(余禄)、「名前は符号ではない。かけがえのない個人の尊厳を内包するものだ」(社説)。ともに実名報道の重要性を投げかける力強くも、しなやかな文章だと思う。(某団体による「国民への関心が高い」といった理由より、よほど説得力に富んでいる。)

だが、実名に代表されるような「人」に立脚した報道は、いま困難さを増しているように思う。要因は取材する側のアプローチ方法にあるのも確かだろう。答えて当然と言わんばかりにマイクを向ける強引な取材手法、恣意的なコメントの選択、双方向性に欠ける報道姿勢などが、マスコミへの不信感に繋がっている面は否定しきれないだろう。いずれにしても、社会の姿を明らかにするために欠かせない、取材する側と取材を受ける側との間で築かれているはずの信頼関係が壊れかけてはいないだろうか。

いま以上に「人」の声が拾いにくくなれば、社会の姿を浮き彫りにし、広く伝えることはより難しくなっていくだろう。それは社会全体を不明瞭にし、強いては自由や平等を壊すことになりかねないと信じたい。だからこそ、報道は「人」によって支えられているという原点に立ち戻り、いま一度信頼関係を構築し直すことが求められているのではないか。そのためには、誠意をもって粘り強く取材の意図を説明する―。そんな愚直な方法しかないように思えてならない。