2010年12月5日日曜日

書くことと書かないこと

 ぼくがこれから始めようしていること、それは書く事だ。たぶん、ここで持論を展開していくことになる。だからこそ、最初にその本質的な意味を少し考えてみたい。「書く事」とは一体何なのか?

 まず唐突だが、ある作家の話しをしたい。その名は、沢木耕太郎。おそらく彼が書くルポタージュは、日本屈指の作品である。ベストセラーであり、ロングセラーの「深夜特急」は、彼の代表作と言われている。この作品から、旅に出ることを決めた人も多いのではないか。沢木の認知度を一気に向上させた本と言えるのかもしれない。

 けれど、私は彼の代表作はそれではなく、「テロルの決算」にあるのだと思う。この緻密な描写こそ、沢木の真骨頂である。この本で、彼は一人の若い「テロリスト」と、ある政治家に焦点を絞り、彼らの織りなす人生を描写していく。そこでの「正確さ」こそ、沢木の魅力であり、沢木が沢木である証明である。それは「圧倒的なまでの文章力」と言えるだろう。

 だが、そんな沢木はこのように言う。「何かを書く事とは、何かを書かない事と同義である。」

 なぜ沢木はこのような言葉を発したのか?これほどまでに、「書く事」ができる作家が、なぜこのような発言をしたのか?この彼の言葉から、一体何を読み取ることが出来るのであろうか?今回はこの疑問に応えることで、ぼくの「書く事」に対する疑問の答えとしたい。

 おそらく、沢木は「書く事」の権力性に気づいたのだと思う。いくら沢木とはいえ、対象の全てを書く事は出来なかった。もちろん、彼は「知っている」事を全てを書いていたわけではない。その中から、書くことを吟味し、取捨選択することで、彼の作品は出来上がっている。「テロルの決算」も例外ではない。

 だからこそ、そこには必然的に「書かない」事が生まれる。何を書き、何を書かないのか。その線引きを決めるのは、沢木にしかできない。だからこそ同時に、それは対象を形作る権力性や規範性に直結している。たった一行、たった一言が対象を決定的に彩ることがあるとしたら、「書かない」事で、表現することもできるのだ。

 これは書く事の、極めて本質的な葛藤ではないだろうか。自分の主観で書いたものが、対象の印象を決定付ける、または形作る手助けをするなら、その権力性といかに付き合っていくべきなのか。たぶん、そこに綺麗な答えはないのだろう。この問いには答えもなければ、逃げることも出来ない。もしここから逃避するとするなら、沢木にはペンを折ることしか残されていない。いや、沢木に限らず、すべての表現者に当てはまるだろう。

 そう、沢木はこの問いに自覚的であったからこそ、彼のルポは輝きを放っているのではないか?つま、それが「書くこと」において、極めて重要な本質だと思う。

 翻って、ぼくは自らの権力性と付き合っていけるのだろうか。ぼくの意見も、また一つの意見にすぎず、意図的に「書かない」領域があることに自覚を持ち続けることはできのだろうか。もっと考えみる必要があるように思う。ぼくはそこに自らの成長の可能性があり、希望もあると思う。
 
 いま沢木の著作読み返すと、そのような記述は見つけられないのが気がかりだが…

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