2010年12月22日水曜日

山際淳司 スポーツを「読む」楽しさ

 「熱狂せずにはいられない。」1979年の日本シリーズは、野球の醍醐味を伝えるには十分だった。広島と近鉄の試合は第7回戦にまで及んだ。日本シリーズ が第7回戦を迎えただけでも、それは大きな熱狂材料になりえる。制覇の条件である4勝に両チームが大手をかけ、さながら「決勝戦」の意味合いを極限にまで 高めているからだ。それにもまして、もっとも観客が熱狂する場面に、この試合の「山場」はあった。ノーアウト満塁。一点を追う近鉄が、九回の裏に手に入れ たチャンスがそれだ。リードしている広島の「負け」が近づいてきた瞬間でもあった。

 そう、熱狂する状況は整っていたのだ。そうであるからこそ、この状況を事後的に文章で表現することになる書き手は、大きな制約と向き合うことに なってしまう。読み手は無意識のうちに、「あの時の熱狂をもう一度味わいたい」と思うだろう。そのごく当たり前と言える欲求に、書き手がどう応えるかは別 としても、やはり熱狂できる文章が求められるのは変わらない。書き手は熱狂を約束づけられているのだ。

 今回の場合、「素材」は超一級品だ。これほどドラマチックな展開はない。その上、広島はそのピンチをゼロ点で切り抜け、勝利を収める。一見する と、これを扱って、しらける文章を作るほうが難しいとも思えるだろう。確かに、生で観たことをそのまま書くことは、比較的に簡単だろう。しかし、それは生 (ライブ)の世界を、単に焼き直したにすぎない。素材の良さだけに傾倒することは、つまり、書き手は「素材」に飲み込まれたことを意味している。

 それは「生(ライブ)を、文章は越えることができない」という完敗宣言を、書き手自らが示すことになりかねない。そうではなく、書き手独自の存 在価値を示すためにも、生(ライブ)とは異なる「世界」を書き上げる必要がある。「素材」を活かし、生(ライブ)では味わえない「スパイス」を振りかける ことが求められるのだ。例えば、マウンド上のピッチャーの思考回路や、三振でベンチに下がったバッタの心理状況である。それらは、丁寧に取材することに よって姿を表す。決して、生(ライブ)で観ることはできないものだ。それらを記すことで、書き手は初めて新たな「世界」を手に入れることができる。

 山際淳司の力量の素晴らしさは、その点につきると思われる。超一級品の素材を見事に料理し、新たな超一級の読み物に作り変えることができる稀有 な書き手であろう。「江夏の21球」は、その代表作と評することができるはずだ。しかし同時に、「あの時の熱狂をもう一度」求めた、読み手には「裏切り」 と映るかもしれない。山際の作品の中にあるのは、新たな熱狂であるからだ。逆説的かもしれないが、そのような「裏切り」にこそ、書き手としての価値がある ことを、山際は示しているように思う。そして、それがスポーツを「読む」ことの楽しさだと、彼の作品を読んで改めて思わされた。

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