2012年5月6日日曜日

2つの「理想主義」の狭間でも

北海道電力泊原発3号機が今日(5日深夜)、運転を停止し定期検査に入った。既に国内の原発50基はすべて停止しているため、同時に「原子の灯」が消えた格好だ。国内の原発がすべて止まるのは1970年以来、42年ぶりのことらしい。

この報道を受け、私は2007年の拙い小論文を思い出した。それは大学院の仲間たちと共同執筆したもので、タイトルは「地域を生かす新エネルギー」。2007年は映画『不都合な真実』で知られる元アメリカ副大統領アル・ゴアとIPCC(気候変動に係る政府間パネル)がノーベル平和賞を受賞、北海道洞爺湖で先進国首脳会議が開催されるなど、エネルギー問題への関心が国際的に高まっていた時期だった。

だが、私たちは1つの疑問を持った。なぜ国内では、エネルギー(電力)に対する関心が高まらないのか。その要因について、拙い仮説を立てた(それはオリジナリティーに溢れたものでは決してなかったが)。「日本のエネルギー政策は、常に国策だった。国家がエネルギーのあり方を決め、市民がエネルギー政策に関与する土壌がなかった。これからは、各地域が自らの地域特性に合った新エネルギー(バイオマス・風力・太陽光など)を選択する地平を築く必要があるのではないか。そうすれば、市民がエネルギー政策に関わり易くなり、より関心を高めることにつながるはずだ」というような趣旨だった。いま小論文を改めて読み返してみると、私が担当した結語はこう締めくくられていた。

≪まだまだ新エネルギーの普及には大きな困難があるのも事実だ。『(新エネルギーの導入推進は)結局、理想を語っているに過ぎないのではないのか?』という反論が出てくるだろう。確かに、日本の電気需要や国際的な競争力を維持するには、安定的に電力を供給することが前提条件である。(中略)しかし、その中核を担っている原子力発電も『チェルノブイリの様な事故は起きない』『現時点では使用できる可能性が低いプルトニウムを大量に生んでしまう』という現実を無視することによって成り立っているのではないだろうか。間違いなく、これは現実主義ではなく、今ある現実に目を閉ざした理想主義ではないのだろうか。

つまり、いま私たちの前には大きく2つの理想主義があるように思う。1つは、私たちが提案してきた新エネルギーである。そして、もう一方は、従来型の国策としてのエネルギーである。私たちはどちらの理想をとるべきなのだろうか。(中略)いま私たちに求められているのは、未来を描ける理想主義ではないか。(誤植等を一部改変)≫

執筆した2007年当時、エネルギー政策は二酸化炭素排出削減に代表される「環境問題」の側面が強かった。一方で、大きな原発事故を経験してしまった現在、エネルギー政策は「どういう社会で、私たちは生きるのか」という、より大きな領域で論じられる傾向が強くなったと言えるだろう。だが、「2つの理想主義」の狭間で揺れ動く構造は何も変わっていないように思う。だからこそ、私は2007年当時と同じ立場を堅持したい。現実に目を閉ざした理想主義ではなく、未来を描ける理想主義を選択すべきだと。

私たちは「原子の灯」が消えた今、その眩しい明かりに隠されていた「新たな灯」を見つけるべきではないのか。それは目を凝らさなければ見つけられない、か細くて微弱な灯かもしれない。しかし、それは新しい未来を照らし得る力を秘めた唯一の灯のように思えてならない。

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